「三宅島新報」合本発刊にむけて/前三宅村議員 浅沼 徳広
2021/01/01
前・三宅村議員 浅沼 徳広(のりひろ)
新年あけましておめでとうございます。
「三宅島新報」の合本発刊は、大きな意義があると思う。
行政や専門家などの災害記録は出されるが、災害被災者本位の立場からの発刊は少ない。本紙の提言や被災者の切実な要望と実態に基づく記事は貴重で、今後の災害にも教訓を残すからだ。
私も本紙第六三号に三宅島漁協の再建等の寄稿や人工透析導入の努力等紹介され、島民読者から「三宅島新報を読み初めて知った。ご苦労様でした有難う」と励ましの言葉も掛けられた。編集にあたった神奈川県の私立向上高校卒業生のDTPA、事務局の保育士さん等の皆さんに、三宅島島民として深く感謝をしている。
合本発刊にあたり、あらためて避難当時等を振り返ってみたい。
神田(じんで)の櫻
私は定年退職する迄外航商船に乗っていた。たまに日本に帰ってきた時、家族に逢い易い様にと埼玉県浦和に家を買い、女房と子供達を住まわせた。家を買う時、「三宅は噴火があるから避難用に買っておくか」と冗談を言いながら買った。平成四年に退職したが両親が三宅で健在なので一緒に暮らす。平成八年漁協の理事、十三年の村議選で当選、喜んだのも束の間、六月の群発地震に始まり、七、八月の噴火・火山ガス噴出により九月の全島避難。漁協は信用事業をやっているので、事業所を閉鎖出来ず品川の都漁連の一室で業務再開するが主な収入源である水産物の水揚げの激減。
十三人の職員、六人のアルバイト全員解雇、改めて四人をバイトとして雇用、業務を続行。この時の負債二億八千万円。当時の専務が突然退職、代わりに私が渋々専務になる。村議と漁協専務の二足の草鞋。それからは村議の仕事がない時は、殆ど毎日漁協の仕事。最寄りのバス停神田でバスに乗りJR北浦和駅へ、そこから電車で東京方面へ。そのバス停に約十本の桜があり三月末になると見事に花が咲く。バスを待ちながら来年は帰島してこの花は見られないだろうな思ったが次の春にまた見た。その次もまたその次も同じ桜を見た。
一方仕事は多忙を極めた。漁協の仕事は、村議の仕事の一環と捉えて無給。給料貰えばその分赤字が増す、一方この災害を機に負債を何とかしたい。その時当時の正副議長では都との交渉がしにくいとの情報を掴む、正副議長を交代させるため当時の長谷川村長と浜松町の喫茶店で二回ほど密会し、交代に成功。
当時の同僚議員の大石さんが「のり、お前新人で当選したばかりで凄い事をやったな」と驚いていた。また漁業権を一本化して漁だけでメシが食える様にしょうと都庁ホールでホーラムを開催。一七00名近い漁業組合員の同意書を取るべく東奔西走、各避難先を虱潰しに廻り同意書を取る。昼は留守が多く、帰宅は夜中近くになり腹が減るので食べるとついイッパイ欲しくなる。これは交通費以外は全部自腹。ある日、村長が漁協の理事全員に都庁三二階の村長執務室に来てくれと通達が来る。当時組合長が東京に、私は浦和に、他の理事達は下田に避難して細々と漁業に従事していたので、上京し村長室へ集まった。
村長は皆に向かい「俺は会社経営で金には人知れず苦労したので漁協の負債の支援には迷いに迷ったが、のりさんの一生懸命やっている姿を見て支援することにした。のりさんに感謝しなければいけないぞ」と言ってくれた。流石村長、私のやっていたことをちゃんと見ていたのだ。が当時の理事諸君はこのことを覚えているだろうか。その他、港や漁船の火山灰処理問題等多忙を極めた。
けれども春先のあの神田の桜を見ると心がいやされ、帰島するまで頑張るぞと自分に言い聞かせた。避難中は埼玉三宅会会長もやっていたが、貴重な経験であった。
今でも桜の季節になると必ず神田の桜を思い出す。