メッセージ・活動紹介

「三宅島新報」合本発刊にあたって/会長 佐藤就之
2021/01/15

三宅島ふるさと再生ネットワーク
会長 佐藤就之

 

「三宅島新報」合本の発刊にあたって、御礼と三点を提起したい。


一つは、昭和期噴火の二〇年周期のゆくえ、二つめは、2000年噴火災害対策と復興の課題、三つに、「三宅島新報」発行を支えた方々への感謝とネット活動である。

 

一、昭和期噴火の二〇年周期のゆくえ

 

噴火・全島避難から二〇年目としとて、マスコミも注目。

 

NHKテレビは、三宅の小・中・高生徒四〇人と教職員百三人が都立秋川高校に平成一二年八月三〇日から避難した。当時、嬉しかったことを問われ「テレフォン-カード」をあげた。

 

小紙第三九号で文化放送防災キャスターの高橋民夫さんは、親と離れ公衆電話前に並ぶ生徒達、その話を放送中に聞き咄嗟に「ラジオをお聞きの皆さんにテレフォン-カードをお寄せいただけないか」と呼びかけたところ即座に全国から集まり実現。

 

当の高橋さんは、良かった、嬉しかったと電話で声が弾んでいた。その文化放送が一〇月一六日から数回「ふるさと三宅島」を放送。一番バッターとして「ゴールデンラジオ!」で放送。

 

朝日新聞西村奈緒美記者が三宅島入りで、同年9月7日に「にぎわう三宅島 取り戻したい」など数回報じている。私も取材のお電話を頂いたが、不在で話せなかった。
読売新聞も田中文香記者が三宅入りして、数回連載した。九月九日に「火山とともに全島避難二〇年④ 故郷との橋渡し⒕年 『三宅島新報』発行人・佐藤さん」と大きく取り上げられた。
都政新報も観光産業課長の浅沼信彦氏の「南海の遺産」を連載。9月8日の「都政の東西」のコラムでは、コロナ渦、台風と噴火避難同時多発に、どう対処するか想定すべしと示唆している。

 

三宅村立小・中学校の「学校だより」によると、中学校で十一月十二日に「噴火に備えた避難訓練」をしている。

 

噴火二一年目の動向は?

 

三宅支庁の令和2年度版「管内概要」は、「地震活動は静穏で、火山ガス(二酸化硫黄)の放出量も少ない状態が続いているが山体深部の膨張を示す地殻変動は続いており、山体浅部の膨張を示すと考えられる村営牧場南―雄山北東間で伸びの傾向が2019年4月頃から見られるようになった。

 

火山活動は徐々に高まり始めたと考えられる。また、主火孔の噴煙活動は弱いながらも続いており、火口内での噴出現象が突発的に発生する可能性がある」と注意。


火山観測中だが、気象庁は、すぐ噴火はないが長期的には地下へマグマが供給されていると考えている。データでも神着―新澪池跡と沖ヶ平―三宅の基線長は2006年頃から膨張を示しているが二〇年周期が変わることを念じたい。

 

すこし過去を振りかえってみよう。

 

三宅地区中高一貫教育理科部会の教材を手引きにして記す。
噴火の間隔は、今回の2000年(平成一二年)、山頂噴火は、17年目。 昭和期二男山・新鼻は、21年目、次は、22年目、1940年(昭和15年)噴火は六六年目であった。


明治期39年目。天保期24年など、42~48年、1469年噴火は、315年目だ。(資料参照)

 

特に、1874年(明治7年)噴火は、神着村湯ノ浜、上の山頂近くの池沢(大穴)で数カ所の割れ目噴火、溶岩が流れ東郷地区を全滅させた。
私の御祖父さんも被災、神着御笏神社横登るに移住。子供のころは、〝郷の坊や〟と古老に呼ばれていた記憶が残っている。


1940年(昭和15年)66年目の噴火は全焼24戸、行方不明11名と噴火が同地区近くで続き、翌年の1941年(昭和16年)9月、神着村より満州へ移民団(6戸)が出発と「三宅村史」に記載がある。

 

光安副会長家族も、島下に住み小紙第75号の紹介記事の通り噴火被災続きで移民団に加わった。

 

三宅島島民は、この様に噴火災害を潜り抜けながら誰しも辛抱強く生きた歴史をもっている。

 

二、2000年噴火災害対策と復興の課題

 

2000年噴火は、多くの想定外に直面した。

 

昭和では、大方20年周期と想定された噴火が、今回は17年目に勃発、3年も早く形態を変え噴火した。
村役場も噴火防災訓練の準備の矢先であったという。

 

その2000年(平成12年)は、6月26日 緊急火山情報(三宅島で)「噴火の恐れ厳重に警戒」が出た。
翌日の27日に「東京都災害対策本部」と三宅島に「現地災害対策本部」が設置された。

 

しかし6月29日 「火山活動は低下、」「噴火の可能性はほとんどなし」との火山噴火予知連絡会が見解の発表。
その発表をうけて同日の29日に、設置したばかりの都と三宅島の両対策本部を夕刻には、廃止解散したのである。

 

ところが9日後の7月8日 雄山噴火 噴煙の高さは火口から800m、8月18日 最大規模の噴火 白色噴煙の高さ約14.000m、うち、黒灰色噴煙8.000m以上、さらに8月29日には低温火砕流が山頂から樹木・竹類などをなぎ倒し神着地区では海まで達した。

 

ここまで来ると、雲仙の高温の火砕流で多数の犠牲者がでたなど想起せざるをえなくなり、6月29日に解散した対策本部を都と三宅島は8月29日に再び設置したのである。

 

8月31日 火山噴火予知連絡会は、噴火が断続的に発生。18日や29日の規模を上回る噴火や火災流の発生の可能性あり、火山ガスに対する警戒が必要と見解を発表した。
そこで慌ただしく9月1日に、2~4日の間に全島避難指示が出た。

 

しかし、その後の噴火の状況は、火山ガスによる被害が続いたが、だんだんと低下傾向となり平成14年10月15日の予知連は、火山ガスも最盛期に比べると6分の1程度になった発表した。

 

予知連の見解は再び外れた。しかし火山ガスによる被害は長期化した。

 

この様な経過の中で、三宅島の火山噴火情報活動は、新たな大きな波が生まれた。
行政、お抱えの専門家、大学教授、マスコミとの四つどもへの論争と対処方法の違いに発展したが、判断は難しく被災者島民をなやました。今日のコロナ渦と同じである。

 

しかし、三宅島の青年たちがインターネットを活用し発信した現地情報が、大学の教授、火山・地震専門家、マスコミ等が独自の見解を発表するなど新しい動きとして前向きに評価したい。


中でも三宅島被災地発信の「島魂」のホームページを立ちあけた島の青年たちの活躍は、三宅島現地の状況発信を受けた専門家、多くのボランティアを結ぶ役割を果たした。
このことは、日本応用心理学会記念大会で「三宅島から福島へのエール」(HP参照)でも強調した点である。

 

次の問題点は、全島避難の方法である。

 

学校関係、老人ホームあじさいの里など災害弱者は、全島避難前に約70%が避難している。
平成14年7月現在調べは、1都17県に分散、約75%が公営住宅2.558人、社宅215人、施設等86人、縁故652人、計3.511人と島民が分散された。せめて公営住宅関係だけでも、島内5地区ごとに避難して、島民のコミュニケーションの保障をする配慮が必要であった。


島民は、避難団地、避難地域等に地域三宅島会を組織。全体を束ねるため三宅島島民連絡会(会長 佐藤就之、事務局長 有馬正美)を結成した。結成には、東京ボランティアセンター等の支援組織、団体、災害関連企業等の助言、物心両面の全面的な支援により結成、運営することが出来た。


東京都、三宅役場の側面支援もあったが、根本的な島民分断避難方法、避難後の支援策については、強い批判と不満もあり、都と村の温度差など一定の距離を埋めることは困難であった。ただし当時東京都副知事の青山佾氏と東京ボンティアセンター事務局長上原泰男氏、社安研所長木村拓郎氏の連携支援、ふれあい集会開催、16万筆署名による被災者生活再建支援法改正の成果など、見事であり感謝して余りあることを記しておきたい
 

三、「三宅島新報」発行を支えた方々への感謝とネット活動

 

2005年( 平成17年)2月1日 避難指示解除・高濃度地区公示 45%が立入などの制限地区となった。
平成17年3月1日 東京都災害対策本部廃止、東京都現地対策本部廃止
平成21年4月1日 阿古地区高濃度地区解除
平成22年8月1日 坪田高濃度地区一部解除(御子敷地区)
平成23年4月1日 坪田高濃度地区の特別処置による継続滞在実 施、薄木・栗辺地区の準居住地区解除
平成25年7月1日 三池・沖ヶ平地区の高濃度地区を解除 ガスマスクの常時携帯義務を緩和等々

 

三宅島の火山ガス防災対策は一歩一歩進んできた。
一方、帰島できなかった約1000人の島民がいた。

 

都と村の処置は様々の理由で、帰島できない島民は三宅島から分離、現住所のそれぞれの自治体のサービスを受けるようにと通告された。
住居も都営・自治体の住居なども家族の分離や世帯数の変更などで、再度転居をさせられ、家賃など支払いが生じた。
何よりも打撃を受けたのは、隣り近所の付き合いが、また切り離されて孤立感を深めたことが辛いとの声が上がっていた。

私たちも避難中の活動の中で島民同士の交流や要望のとりまとめなどの経験から、まだ全島避難の延長にあるとの認識のもとに新たな組織の必要性を痛感していた。

 

そこで、2005年4月1日(平成17年)に「三宅島ふるさと再生ネットワーク」を立ち上げた。

 

目的は、

①帰島できなかった島民に情報提供、交流、要望事項の検討などの継続
②三宅島島民の生活再建、再生のための活動
③三宅島噴火災害の実態と被災者島民の声を全国に発信するために「三宅島新報」と「ふるさとだより」(HP参照)発行、ホームページ、通信、他団体との連帯行動の活動など三点を掲げた。

 

特に、三宅島新報発行とホームペーシ立上げは、多くの反響と役割りを果たした。ほとんどのマスコミ関係者の三宅の取材の窓口になり取材先の紹介など、現地の光安副会長・三宅島支部長との連携で成功させた。また、東京大学、慶応大学、一橋大学、埼玉県立大学等のゼミ学生の調査・研究のために三宅島に訪れた集団や日本赤十字関係者、個人の論文・調査等にも誠実に協力をした。

 

これらの活動の土台となったのは、「三宅島新報」制作・編集にあたった神奈川県伊勢崎の私立向上高校新聞委員会の卒業生が組織するDTPAと山田貴久先生の14年におよぶ努力の結果である。深く感謝を申し上げたい。カラー印刷などは、プリントハウスさんに世話になった。


発行当初は、「三宅島新報」第1号(2006年1月1日発行)にあるように大妻女子大学大学院千川剛史教授による印刷・作成からホームページ立上げなど学生さんなどの全面協力で順調に滑り出すことが出来た。

 

活動は、全部ご寄付により行っている。三宅島小・中・高の同級生のご協力も忘れることは出来ない。リーダー格の井上尚氏、三高卒のi女史、光安女史、大石真氏など同窓会に集う皆さんは、10万円単位の大口寄付やお米券なども戴き在京者に配った。他に吉田信行様、佐藤宗ノ子様など、そして板倉美紀子事務局など歴代の役員、保育士の皆さま、寄稿された方々など感謝です。

 

さらに鶴吉日本舞踊師匠、女優の京町さん、三宅島ソング「望郷の詩」五木ひろしさん、多数の芸能関係舞台にご招待を受けた。


ご協力、ご支援を戴いた方々は、紙面にご紹介出来ないことは断腸の思いであることを述べ、筆をおきます。

 

 

参考・引用文献

松尾駿一:2000年三宅島噴火・避難―子供たちの記録
平成29年 三宅島火山防災協議会:三宅島火山避難計画(案)資料 有史以降の火山活動
東京都三宅支庁:管内概要 令和2年度版
三宅地区中高一貫教育理科部会 平成15年:三宅島の自然と2000年噴火―三宅島火山を理解するためにー 資料 15世紀以降
三宅村役場:三宅島史(昭和57年発行)
気象庁地震火山部 火山監視・警報センター:三宅島の火山活動解説資料(令和2年11月)
三宅島噴火災害の現状 望郷 長期避難生活と島民の声 発行 三宅島島民連絡会
三宅島史考 廣瀬信吾著

 

 三宅島ふるさと再生ネットワーク
PAGE TOP