1・17から三宅島へ
2006/12/14
~メッセージ~三宅島復興支援コンサート
―佐藤就之会長の講演―
平成18年9月11日、練馬区防災課主催で三宅島支援の集会が大泉学園ゆめりあホールで150人の参加で行なわれた。佐藤就之会長は島の現状について講演した内容を紹介します。
ことし(平成18年)の6月25日にひまわりウエーブの方やきょう出演の女優の京町(みやこ)をはじめとする皆さんが三宅島を訪れて、ひまわりの種を私たちとともにまきました。社会福祉協議会、そして神着老人クラブの人たちが一緒にまいたひまわりがこのように(舞台の三宅島勤福会館前の映像を指して)元気にたくましく、大空に向かって咲き誇っております。どうもありがとう。
私たち三宅島の島民は、このひまわりのように、さまざまな皆さん方に助けられてきました。この席をかりまして感謝を申し上げたいと思います。どうもありがとうございます。今、すてきな、そして私たち島民の気持ちをしっかりととらえていただきました、練馬区防災課長さんのご挨拶や京町と練馬の生徒さんたちの出演を見て本当に感激をしております。
私たちは去年の2月に島に戻りました。ことしは、皆さんもご承知のように、天候が大変不安定でありまして、三宅島に雪が降って積もることはあまりなかったのでございますが、私たちが帰った2月1日は雄山が真っ白で、本当に寒く、そして木枯らしの吹く日々でありました。2月といいますと、今まで4年半、足を踏み入れたことのない、また正確には4年半のうちに、約2年間、年に1度ないしは2度ほど半日または数日、家屋を見に行ったという回数しかない中で、三宅島に私たちは戻りました。家は荒れております。畑は竹と草ぼうぼうで、野菜などは一切ありません。そして、道路や砂防ダムの工事が進行中に戻りました。私たち三宅島島民はかつての三宅島の長い、長い歴史の中で、この困難な自然災害と闘って生き抜いた経験、知恵によりまして、冗談抜きで2月から数ヶ月間、アシタバを野から摘んでみそ汁に入れて、それでご飯と梅干しなどを食べながら過ごしました。2月ですから畑には野菜は1本もありません。畑は10センチくらいの火山灰と、私たちの背の3倍くらい伸びた竹に覆われておりまして、畑に野菜をまいたりすることは一切できません。そういう中での帰島でございました。
一方では、今映像にもありましたが、火山ガスが出ておりまして、島内の45%が立ち入り禁止地区になっております。私たちが三宅島に帰る前に、島民がみんな、村の指定するお医者さんに健康診断を受けました。あなたはぜんそくだから、行ったら危ないからやめなさい。気管支炎、心臓病、これにもし二酸化硫黄ガスに当たったときに呼吸がとまるかもしれないからやめなさい。赤ちゃん、危ないですよ。今まで前例はないけれども、医学的に見ても、どう見ても危ない。子供、さあどうでしょうか、長いことガスを吸うとぜんそくにかかるかもしれませんよ。さまざまなことをお医者さんに言われまして、ドクターストップで帰島をあきらめた方も多くおります。
学校の児童たちはそのために30%台しか戻ることはできません。高校生も、115人いた生徒が50人しか戻ることができませんでした。学校も実は小学校3、中学校3、それぞれの地区にありましたけれども、現在の生徒数では小学生が30%台で63名、中学校が36%で44人、そして今紹介をしました高校は115人中50名しか帰っていないのです。そのために、各3校あった小学校と中学校を三宅島1校ずつにしよう。中学校を1校、小学校を1校にしようという提案が今なされて、村では議論をされております。小・中学校が各地区に1校ずつあることは大変重要なことであります。坪田というところに小・中・高等学校があります。伊豆・伊ヶ谷・神着という3つを集めて三宅小・中学校があります。そして阿古にそれぞれ小・中学校がありました。それを、今度は三宅中学校、三宅小学校ということで、伊豆に1校だけにしてしまおうという話があります。
ここにお集まりの練馬区に住む皆さん方は、きょうの主催者あいさつをしていただいた防災課長さんからもお話が伝わっていると思いますが、学校を避難の拠点に据えるということをしっかりと決めて、練馬区の住民の皆さんに啓蒙していると思います。実は、学校というのは目的外使用禁止ということで、なかなか使わせてもらえなかった経験が多々あります。阪神・淡路の災害のときにも学校の利用については、住民と避難民とのトラブルが大変多くありました。三宅島も、噴火のたびに学校が避難所にはなっておるわけでありますが、避難をした後、家財道具や、特に民宿や商店の人たちの商品、そういうものが4年半も放置をされていたわけですから、ぜひそういうものを学校の校舎や体育館に置かせてくれと。そうしなければ、二酸化硫黄は鉄分を腐らせますので全部だめになってしまう。ネズミがつく、イタチがつく、シロアリが入るということで、少しでもいいから学校の教室に置かせてくれと必死になって、私たち島民は頼みましたが、学校は教育の場所であって、避難民の財産を保管するところではないのでだめですと断られてしまった。島民の集まりの会合のたびに、島民から必死になってお願いをしましたが断られました。それが何と、私たちが帰島をして、冷蔵庫はだめになり、捨てる。自動車もだめになって、廃車にする。扇風機も、電気製品はほとんどだめになりました。布団も、ネズミが巣をつくって捨てました。その捨てたゴミを学校のグラウンドに山積みにしました。
生活のために必要な日用品、資材等を一番必要なときには置かせてもらえなくて、ゴミになったら、これは公共の人たち、島民の、帰ってきた人たちの邪魔になるから公共性があるということで学校を使うんです。生きるための資材は保管をしてくれないけれども、ゴミに捨てたときに、清掃事務所が私たちのゴミを運んでもらっているように学校を利用する。学校というのは、そういう点ではさまざまな、大きな制限があります。阪神・淡路にも、私は避難してから毎年、阪神・淡路の人たちに呼ばれまして、三宅島の実情を訴えに参っております。そこでの話では、ご飯を炊くものがない、水がない。緊急避難をしたけれども学校の給食器のお茶わんは使えない、ガス台も一切使わせない。そこでは先生と小競り合いのけんかになったという話も聞きました。まさに、災害における学校の位置というのは、大きな役割を持っています。
私も練馬区には避難中に、先ほど報告がありましたように、練馬区三宅島会ができておりましたから、防災課の皆さん方とも交流があります。練馬区では、しっかりと災害が起きたときには学校に医療品も医療器具も、水や、すぐに生活ができる体制を整える。学校の先生もそのために協力をすることが、議論をされて、日本の中で一番先進的にきちんとつくられているのがこの練馬の防災対策。私は、はっきり言いますけれども、恐らく練馬区の皆さん方はこのような防災課の努力によって、ほかの区に比べて人命などの安全とが大きく違ってくると思います。このような対策がない区と立てている区、しかもそれが住民に知らされていることによって、大きな私たちの命と財産が守られることが違ってくると思います。そういう点では、大変大切な経験を三宅島からも皆さん方にお伝えすることができます。
三宅島は、今、おかげさまで、皆さん方のご協力をいただきまして8月1日現在では村の住民台帳上は人口3,800人のうち2,900人が戻ったことになっております。それから、避難前の1,800世帯のうち、現在では1,750世帯が戻ったことになっております。しかし、これは実態でしょうか。私たちは三宅島に住んでおりまして、この数字はどうもおかしい、それほど帰ってきていない。この数字でいきますと75%の島民が戻ったことになります。しかし実態的に言いますと、先般、国勢調査が行われましたが、ここで確認をしたのは2,500人であります。さて、この差額、400人はどこに行ったのでしょう。
もう1つ数字を言いますと、私たち三宅島ふるさと再生ネットワークで調べた数字では、先ほど言いました島民の203世帯が東京にまだ残っております。そして9県の地方に56世帯が住んでおります。私たちが一生懸命探しているのですが、転居不明の世帯が146世帯あります。それをあわせてみますと数字が合いません。どうしてしまったんだろうと思います。
これでいくと、避難前より355世帯ふえたことになります。これまでの実態の数字はつかめません。なぜでしょう。帰らないという人たちと帰りたくても帰れないという人たち、この人たちが実は75%戻ったことになっておりますけれども、家族がばらばらで、家族が分散をして、お互いに別居し合って生活をしているというのがこの数字の深刻さであります。要するに、島ではおじいちゃんがおり、お父さんがおり、子供がいる世帯が、この噴火、2月1日で解除された後も、実はお父さんは1人三宅島で働く、お母さんと子供はこちらに残って学校に通っている。または、老人の人たちも、先ほど言ったぜんそく持ちの人なんかは帰られないが、息子は帰るという世帯。特に深刻なのは、先ほど言いましたように、30%しか小学校、中学校の生徒、高校も帰っていないわけですから、70%の人たちがお母さんとこの東京の土地、ないしは9県にいる。
私は、今回皆さん方にも配ってあります新聞の中で紹介をしておりますが、実態的に数字を見まして、私自身も家内がぜんそくのためにこちらに残したまま、95歳の母親と三宅島の神着地区で2人で生活をしております。家内はぜんそくのために島に踏み込むこともできません。ぜんそくの人が無理やり島に帰ったら戻らざるを得なかったという実態もあります。そのような状態で、まだまだ私たち三宅島の島民は災害の課題を抱えたままであります。さらにつけ加えるならば、今、皆さんに入口のところで空港の再開を呼びかけた署名をお願いしています。船は東海汽船の努力によって毎日1回通っていますけれども、飛行機は、全日空ですが、行くことは躊躇しております。火山ガスの上を通っていくと、鉄を腐食する二酸化硫黄の影響を受けるのではないか。飛行機を操縦する操縦士に被害が及んでは大変だということで、東京都が空港を整備しておりますけれども、まだ飛ぶことができません。私たちは1万人の署名を集めて早く再開をしよう。そうすれば少し体の悪い人も行って帰ることができます。船では6時間かかりますけれども、飛行機では30分から40分間で着くことができます。しかも羽田から出ております。
また、島に50床の特養老人ホームがありますが、これがまだ再開をされておりません。皆、まだ三宅に帰れないでいる高齢の方が待ち望んでおります。実際こちらに、それぞれ施設にお願いをしているのはデイサービスを含めて150人くらいいるのではないかと言われていますが、これが来年にならなければ再開しません。そして、住宅が足らないために帰りたくても帰れない。なぜかと言えば45%の危険区域に、立ち入り禁止区域になった住宅の人は住む場所がないわけです。村営住宅を一生懸命つくっておりますが足りません、それで帰れません。今まで観光の中心だと言われていた、1つ大きなポイントになっておりました温泉も全部鉄、施設が腐ってしまって使うことができません。
さて、このような実態でありますので、私たちは三宅島の噴火災害は終わってはいない、まだ続いているのだということを強調しております。そして、まだ帰れない人もいっぱいいるんだと皆さんに訴えております。しかしながら、村が3月に開いた定例村議会での村の答弁では、現在は「公的には避難指示解除をもって2000年噴火災害は終了したものということで、全体の仕組みがそうなっているということをこれまでたびたび議会でも答弁したところです。」一方、「国では災害に対する個人補償はしないという建前になっております。」と言うのです。私たちは今困難な生活を強いられております。火山ガスのとまる見通しはありません。そういう中で、私たちは三宅島ふるさと再生ネットワークをつくりまして、まず帰れない人たちの支援、もう1つは被災地であることを全国の皆さん方に理解してもらう。そして最後に三宅島の復興を、みんなの力で努力をしていこうと考えております。
本日はこのように、帰島して、公的にはもう避難は、災害は終わったと言われている三宅島噴火災害に対して、ご支援のコンサートまで開いていただきました。そして練馬区の防災課の皆さん、大変ありがとうございます。私たちを忘れないでください。私たちは困難な三宅島で力強く生きていきたいと思います。どうもありがとうございました。
――了――