長島忠美衆議院議員(旧山古志村村長)にインタビュー
2006/03/01
-旧山古志村と三宅島の災害被災地の課題について語る-
2月22日、国会では党首討論が行われるなど多忙な中、三宅島新報編集部は旧山古志村村長であった長島忠美衆議員に第二衆議院会館でインタビューをお願いした。
冒頭、佐藤会長から三宅島島民連絡会と東京ボランティアセンターが2004年12月21日に山古志村仮設役場を訪れたときのお礼などからインタビューは始まった。長島議員は、「同じ被災者でありながら尋ねてくれた事に大変感激、激励された。今でも島民の激励の『寄せ書き』は、事務所に大切に掲示してあります。」と当時を振り返り話は弾んだ。
被災地と国の被災地救済の課題と現状
佐藤 先生、きょうは最初お手紙を差し上げたのですが、私の方から2点ほど先生にお伺いします。
1つは、私たち三宅島は昨年2月1日で帰ってから1年ちょうどを迎えて、記念行事も終わったところなのです。先生のところの旧山古志村を含めまして、中越の被災地は、大雪ですがいまの現状をお聞かせください。
2点目は、私も避難中の5年間、災害問題をいろいろ調べてみましたら、今世紀は大災害が、30年後、50年後に予測されるような状態です。国の自然災害対策というものがどんな動きになっているのかなということに非常に関心のあるところなのです。
あわせまして、ご承知のようにこの前「被災者生活再建支援法」の改正の時に16万人ほどの請願署名を全国から集めました。ちょうどあの時は綿貫さんが衆議院議長でしたが、ここにきて議長官邸で提出をしたりして、一部改正になった。私どもも引っ越し費用70万円などを支給されるように改正されました。当時「災害議連」というのが超党派であり熱心に支援してもらいましたが、議員の先生から「佐藤君、災害問題は票にならないからやる人が少ないんだよ」など言いながらご協力いただいたのです。特に住宅本体の再建支援等について国の大きな流れと、議員さんは、私たち被災者の声をどうのように汲み上げて、どう改善していくのか、ないしは救済していくのかという2点ほどを最初にお伺いをします。
長島 ずいぶんお世話になりましたけれども、中越の被災地、災害(復旧)は、一応3年と言われていますから平成18年度中に、来年の3月までにやり上げるというのが本当は災害復旧の姿なんですね。でも現実には今、まだ2,300戸ほど、8,000人を越える人たちが仮設の中で暮らしています。それはやはり道路が甚大なのと中山間地のために一気に工事ができないということ。6カ月間雪の下にいるということで、やはり思ったほど道路の復旧が進んでいないのです。だから多分3年でやり上げられないところも出てくるのだろうと思うし、本当は仮設住宅は2年の約束ですから、この冬までに生活再建をさせてあげたいということの中で2年という約束なのでしょうけれども、とてもちょっと、2年で100%の人が出られるかというと厳しいところがあるのだろうと思うのです。だからその望みをどうやってつないであげるかという、まさにその時期だと思っています。
それとやはり、私は本当は国会議員を望んでいたわけでもないし、望める立場でもありませんでした。ですから「晴天の霹靂」という言葉で片づけたほうがいいのかなと思うんですけれども、国会に来て私ができること、感じることといったら、国民の目からしたら、災害はあってはほしくないですよね。災害があったときに必ずつらい人が出てしまうということがありますから。でもことしの冬、豪雪の中でも孤立する集落が出てきたり、いろいろな弱い地域が出てきているはずですから、これは道路とかを含めて、人が住むまばらなところにそういった経費をかけるのはむだだという議論が一方ではあるわけです。私はあえてぜいたくな道路ではなくて、最低限安全に暮らせるだけの道路や社会インフラの整備は必要だという立場で今、訴えています。国はどんな所で生活をしようが、希望があってそこで生活を営んでいる以上、最低限安心して営める社会インフラの整備をまず急いでいただくべきだということを今、私は訴えています。
それでも、やはり自然災害というのはなくならないと思うんです、あって欲しくはないのですけれども。あったときに、辛い立場の人をどうやって救ってあげられるのかというのはまさに国の課題だし、地方の自治体の課題だと思うのです。災害があった時に住民に向き合うのは市町村の役割だと思うのです。その向き合った市町村がどうやって住民の生活を再建してあげるかは、地域によっては多少差異があるのだろうと思うのです。やはり地域によって差がある所をきちんと受けとめて、支援をしてあげるところに行かないと、一律な災害復旧をすることは難しいところがあるのかなと思います。
それと今、阪神、神戸のほうで始まっている、共助という所で簡易な保険制度にかわるものとして、安心な最低限の手当てができるものというところもこれから広がってくるべきだろうと思うし、先生たちのおっしゃった生活再建という部分では、運用上は随分広くしていただいた部分もありますけれども、支援が公平であることが集落ないし生活を再建することを押し進めるのか。逆にやはり自力でできる人はできるだけ自力でやっていただいて、どうしても、どんなかたちでも災害を受けた時には自力で再建をすることが困難な人たちがいる。その人たちを一律に公営の住宅等に入れてしまうのが国の施策なのかというところ。そうではなくて、あくまで自力再建ができるような形でやっていくべきだと私は思っています。
私どものところでは中越復興モデル住宅ということで、とても都会では考えられないくらいの値段で住宅再建ができるよということで、今提案をしています。1,000万円住宅、それだったら何とか義援金とか国や県の制度の中で、限りなく負担がゼロに近い状態で再建できるのではないかなと思っています。
そういったことを両面からやっていく必要があると思って、今やっています。
佐藤 ちょっと最初の話に戻しますけれども、三宅島も、私の家は1年たってもまだ修繕を続けている状態です。最初は地震があって、3カ月続いて大きく揺れて、それで塀なんかがひび割れし、次は火山灰が降りまして、今、庭と畑の灰とりです。
それからあと、家屋や自動車、電気製品なんかも、ちょうど鉄を腐らせる成分が入っていますのでだめになった。わせて、その灰が家屋の中に流れ込んで泥流でしょう。今度は4年半帰れなかったものですからネズミ、いたち、シロアリがつきまして、帰ってみましたら家がめちゃくちゃになっているんです、ガスの被害をあまり受けない地域でもそうです。
長島 危険地帯が残りましたものね。
佐藤 ええ。ちょっとそういう点では旧山古志村のところにも私はお伺いして、感じてきたのですが、最近の自然災害は、阪神・淡路でも地震がどんときて大火事があって、犠牲者が大量に出た。かなり複合的に、いろいろなものが重なり合っています。、先生のところみたいに地震があったら水が出て、今度は雪だということで、次から次へと重なっていくわけですよね。
長島 雪というのは、雪国で生活する上では、これくらいの雪は覚悟をして生活をしていますから、住めてさえいればそんなに困難ではないと思う。ただ住めないところに大きな雪がくると、やはり被害も広がるし心配も広がるということだと思うのです。
佐藤 何か一時被害を受けたら次は復興に入れるということではなくて、いつまでも「復興」ができなくて「復旧」を追いかけっこをしている状態で島も1年たった、そういう点では私どものところと先生のところの中越なんかを比べてどんな感じですか。
長島 同じですよ。地震で住宅災害だけではないんですよね。農地も公共施設も全部災害を受けていますから、全部の災害復旧をやっていかなければいけないということで。実は住宅だけ建てかえましたら住めるということではなくて、生活の手段である大事な田んぼもすべて失われていますから、そこの災害復旧も急いでやらないといけないということです。全部の避難をしなければいけない状況になったということは、公共施設をどうやっていつの時期に戻すかによって、住民が帰宅するところに違いが出てくるわけです。
だからこの春からとにかく役場の機能だけどんと戻して、一応住民が帰ることのサポートをしようということにしているのです。何もないところに帰れませんよね。私も先生と同じで自宅は手つかずです。解体をしないといけないのです。建て直しをしないといけない。
佐藤 あと災害でかなり、私どもの経験から言っても重視しなければいけないのは元の集落のコミュニティ、これの維持が重要だなと思いました。先生がこの前(1月)の、産経新聞特集で「災害の実態をそのまま伝えるようにした」ということが載っていまして、私は非常に感銘を受けた。
三宅島はなかなか、海を渡って遠隔地なものですから実態が伝わらなくて、「忘れられた被災地」となっていました。その点先生の努力で実態がつまびらかになりますと義援金の集まり方も違うし、国のほうも何とかしなければいけないとなる。実は、それが大事だなと感銘を受けたんです。
長島 中山間地で暮らして、圧倒的にまばらで人口が少ないわけですから。やはり皆さんの支援は世論です。世論につながって、その世論が後押しをしてくれたということで。やはり今の世の中で費用対効果で、1人当たりの費用がこんなにかかるのに災害復旧かという議論も確かにあったはずです。
私は国民の大事な税金を使わせてもらって災害復興を遂げる以上、きちんと国の中で役割を果たせる地域になりたいということをずっとお願いしてきました。それは経済的にはしばらく無理かもわかりませんけれども、日本人の心の部分で、どんなにつらいところでもコミュニティを取り戻す。それは大事な歴史や文化を取り戻すということですから、そのことの中でやはり中山間地、日本人の心のあり方も復興していくんだということは私どもの目標の1つです。
佐藤 なかなか行政関係のところはどこもそうですが、あまりマスコミやなんかを入れますとやはりつい批判的になったりするので何となく躊躇するような例も随分あるようなのですが。
長島 私は最初からすべてをお話しますと。そのかわりすべてをありのままを伝えて欲しいと言って、150日間ずっとマスコミの皆さんと毎日、毎日夕方になると教えていただいたり、話をさせていただいたりを150日間やってきました。
佐藤 毎日、そうですか。
長島 だからある意味、マスコミの皆さんから随分応援していただいたなという気持ちはあります。
佐藤 三宅は今でもマスコミの人に「佐藤さん、何かあまり……。役場に何を訪ねても全然協力的ではない、してくれない。」と、結局私が出来る限りいろいろやるように。
長島 それは広報マンが必要なのです。やはり職員というのは聞かれて、災害は特にそうですけれども、住民の思いが100だとしたら、行政で100を叶えてやることは絶対に無理なんです。だからその時に逆に職員は100を叶えてやれないために、それを言ったら批判をされるのではないかという心配をして、話せないんです。やはり「政治家」か「広報マン」が必要なんです。
佐藤 なるほど。それはやはり首長(村長)がやるということになるんでしょうか。
長島 首長、あるいは責任ある立場の方がやるべきだと思います。合間に情報が出たらほんの一言で住民というのは混乱をしてしまうし、傷つけてしまうということです。そこは大切にしていきたいなと思っています。
佐藤 やはり災害においてはそれが非常に重要ですね。私ども4年半いまして、いろいろな情報が飛び交って随分苦労しましたからね。
長島 私はうまくは伝わっていないと思うんですけれども、地震は現実として被害をもたらして、傷跡が残っています。でも傷跡というのはお金と時間が解決して何とか直せるんです。コミュニティとかいう、心の部分で傷を負ったら、これはやはり今の状態では直すことは不可能に近いくらいですから、やはり気持ちをつなぐことを最優先にするのが災害復旧の近道だと思います。
佐藤 三宅島も当初は都営住宅のあいた所に入ったりして、プライバシーは守れたけれどもコミュニティは壊れたということになりまして、私も島民連絡会の会議を何回もやったりして、意見をまとめたりするのが大変でした。今、1,000人ほど帰島できずに残っているんですけれども、その人たちもまた、ばらばらになってしまいまして、今それをつなげることをやっているんです。
長島 多分うちのほうでも、2年避難をしたら、100%の人が帰ることは不可能かもわかりません。それは小さなお子さん等が生まれてきてそこに置いた状態ですけれども、やむを得ずそこに根づかざるを得ない人もいっぱい出てくるのだろうと思うのです。でもその人も「帰りたい」という思いの中にいたわけですから、その人たちが生活をできるように見届けてあげるのも私の仕事かなと思っています。
佐藤 同感です。あと、私の質問は最後なのですけれども、住宅再建、被災者再建支援法、4年間の見直し期間がありまして、あと2年たつと恐らく……。
長島 そうですね。18年度に。
佐藤 私は住宅本体への支援策というのが非常にポイントになるのではないかなと思っているんです。国会といいますか、議員さんたちの中ではどんな動きでしょうか。
長島 災害のあった当初は、多分住宅本体にという思いがいっぱいあったんだと思うんです。でも災害というのはもう1年過ぎるといろいろあれしてしまって、やはり市町村の再建に任せるべきだという意見も依然としてあるんです。だから私は今の制度の中で100%うまく活用しながら復興しようということでやっていますけれども、18年度の議論のときには住宅本体という問題と年収制限をどうするかという問題の2つが大きな問題になると私は思います。
佐藤 対象者をどうするかですね。
長島 同時に、共助という部分の、国が簡易な保険制度みたいな形で特定財源を残して、そのことの中からそれにあてるということができるかできないかというのが並行の議論になると思うのです。
先生が言われるようにぽんと渡してもらえれば、支援の面では一番公平かもわからないけれども、現地で見ているとやはり自力でできる人と自力でできない人と、災害が重い人と重くない人とあって。そのことによって逆に不公平感を生むところもありそうな気がしているんです。住宅本体にということには……必要なんですけれども、そのほかのところで少し議論をする必要があるかなという気はしています。
佐藤 本体にというのはなかなか難しい状況ですか。
長島 でも、だいぶ本体に踏み込んできましたから。今度はこの生活再建支援法というところではなくて、私どもの中越の地震で中山間地は特に地盤災害で宅地そのものが失われてしまうという中で、個人の宅地を補修する場合に、国が補助を出すという方針を出しましたから、私どものところもそれを使えることになります。今までの個人の資産のうち、宅地に公的支援は入らないというところから一歩踏み込んで、宅地という部分には出せるというところを示してきましたから、少しずつ前にいくのかなという気はします。
佐藤 私どもは東京都から150万円、やはり本体にということでいただいたんですけれども、非常に助かったんです。
長島 私どもは復興基金の中で今回、中山間地復興モデル住宅には150万までということで、県が先週発表して本体に入ることになった、復興基金の中から。
佐藤 -- 新潟県でね。
長島 ええ。最終的にはやはりそういう方向も、県なり市がやることを国が財源をするということも必要なことかなと思います。
佐藤 私ども、全国知事会に要望書を出しております。今地方自治体も財政事情はそれぞれ差がありますから、ある程度国のほうで最低限フォローをしてくれないと、自治体だけではいろいろ格差が生まれてきてしまうのではないか……。
長島 究極は自治体がきちんと災害復興計画を立てたことを認めてあげれば本当は一番問題がないのですよ。住宅再建もインフラの整備も含めて全部、自治体がこれだけ地域を取り戻したいという復興計画をまとめたらそれに対するきちんとした財源手当てを国と県がしてくれれば、住宅の問題は全部解決するんですよ。
ただそれには、個人資産にはやはり国民の議論が必要でしょうから、天井はどのくらいだという議論が必要だと思います。この村は建てるために1,000万円も2,000万円も出した、この村はゼロだったというところにはやはり行かないほうがいいと思うのです。
小林 (法政大学生) 三宅島の人たちに対するメッセージを聞きたいんですけれども。
長島 私はずっと帰るまで、三宅の皆さんはばらばらに避難をされていたにもかかわらず、いわゆる民間のレベルで連絡を取り合って、ある意味意識がつながっていたことに、私とすればすごく感動をしていまして、その気持ちを大切にしていって欲しいなと。やはりふるさとは戻れる人だけのものではなくて、場合によっては今東京にいられる人もやはり三宅というふるさとを持っていらっしゃる方。だから皆一緒になってふるさとのことを考えて欲しいなと思います。そうすれば絶対、前よりももっともっと元気な三宅が実現できるんだろうなと思って、私たちの先輩としてぜひ頑張って欲しいなと。
小林 (法政大学生) 実際に被災者の方は問題意識を持ってコミュニティを再建していこうという意識があると思うのですが、直接被害のない遠方の人とか、かかわりのない人たちにとって、どのような意識を持ったほうがいいのかとかいうメッセージはありますか。
長島 メッセージというか、お願いです。日本人は暮らしの生業(なりわい)の仕方が東京から、私たちのような中山間地までいろいろな形があるので、まずそこのところを見てほしいなと思います。
中山間地は中山間地なりに日本の国の中で役割を果たせるために地域を取り戻したい。それはやはり自分たちのノスタルジーだけではなくて、日本の国の中で、中山間地というものが必要なんだと。私たちが復興を遂げていくことは、私たちと同じような環境の中に住んでいる人たちにとって、要は中山間地というと、どちらかというと人口がどんどん少なくなって、若い人が少なくなってという悩みの中にいると思うんです。
でも私たちが復興を遂げて、もう1回元気のいい村をつくることができれば、中山間地で日本のふるさととしてやっていけるという勇気を持ってもらえると思うのです。ぜひそこのところを見ていてほしい、応援していてほしいなと思います。
渡辺(法政大学生) 古志村が被災されたときに、ボランティアがたくさんかけつけたかと思うのですけれども、ボランティアの力というのはやはり大きかったでしょうか。
長島 恥ずかしいことに、小さな村ではボランティアの皆さんをあんな大きな災害で受け入れる能力は、本当のことをいうとなかったんです。いっぱいの方が来てくださって、最初のころは随分ご迷惑をかけたと思うんです。ボランティアの皆さんで、村に入れて、うちを片づけたいというお手伝いの気持ちの方もいっぱいいらしていただいていたんだけれども、うちの村は当時は危険でだれも入れない状況でしたから、避難所にいる人たちのお世話をしていただいたり、少し支援物資の配付をしていただいたりということをして……。
ところが職員にノウハウがないために、最初混乱したんです。ボランティアの経験がある団体のリーダーの方5~6人に集まっていただいて、とにかくだれか頭になって、仕切ってくださいとお願いをした。その方たちにすべてを委ねることにしたらうまくいくようになりました。だからこれから、多分災害とか、そういったとき、ボランティアをやるときに、市町村がそんなに肩肘をはらないで、ボランティアの組織は神戸以来結構できているので、来られた方に素直に相談をして、こういった問題でと素直に相談をしたほうがいいなと思いました。
うちのところは実際に、避難所のお世話はすべて民間のボランティアの皆さんと行政ボランティアの皆さんとで仲良くやっていただいて、行政ボランティアは保健師さんだとか、介護師さんだとかが来てくれた。民間の方はいろいろな資格のある方が来てくださったりして、うまく連携をとりながら避難所のお世話を2カ月間していただきました。
うちは避難所が引っ越ししたりしたでしょう。そういうときに随分力をかしてもらったり、避難所から仮設に移るときに荷物を運んでいただいたり、掃除をしていただいたり……。
もう1つ、ボランティアさんに私が一番感謝をしなければいけないのは、被災を受けると自分たちの力だけではどうにもならないという思いがあって、1人ぼっちになってしまったというか、だれも見てくれないと思うのが一番心細い。今もまだボランティアの皆さんが来てくださったり、ボランティアセンターを置いていてくださるのですけれども、だれかが心配をしていてくれるという、それが気持ちの上ではすごくうれしいんだと思う。特におじいちゃん、おばあちゃん。若い、お孫さんみたいな、皆さんみたいなボランティアが来て、話をしたりするのがとても力になったんだと私は思っています。(略)
-- ことしの夏に行ったときは随分うちとけて話をしてくださった。
長島 だからうちのおじいちゃん、おばあちゃんは若い人たちから今回の災害で随分元気をいっぱいもらったなと思う。私はかえって若返りましたねと言っているの。若い人とつきあっていると若いんですよと。
-- 取材をお願いするときというのはどういうふうにしたら……。
長島 ぜひ。うちの事務所に電話をくださいますか。
せっかく来ていただいたのに時間をとれなくて申しわけない。私はこんなあれですから。私は中山間地のよさを、どうせだったらここで皆さんにわかってほしいなと。三宅の皆さんが三宅のよさをわかってもらいためにやっていらっしゃるのと同じように、どうせ中山間地を取り戻すんだったら、私は住民にもふるさとを取り戻して発展する千載一遇のチャンスと捉えようと、復興計画の中に入れましたから。
生涯現役の村にしようと、おじいちゃん、おばあちゃんの仕事をとらないよ、スコップを持ってもらうよと言っていますから、そういう意味では。
佐藤 -- 夏あたりでも先生、三宅島へ視察に来てください。
長島 私もお礼に行けなければいけないと思っているんです。ところがなかなか、本当の話、まだ地震から1日も休めていないんです。まだ1時間きりうちに帰っていないんです。地震があってから、1年4カ月いましたけれども、まだ自宅に1時間しか帰っていないんです。
-- 都会生活は息を抜くところがなかなかね。やはりふるさとだったらほっとするんだけれども。
長島 でもみんなから声を聞いたり、いろいろな問題があるうちは私が一生懸命、仕事でしかわかってもらうことができないので、とにかくやろうと思っていますから、うちは二の次、三の次で最後にしようと。でも皆さんと同じですよ。テントの中の50日間はいい経験になりました。テント暮らしは楽しかった。
-- どちらでテントを。
長島 長岡で事務所をやったときに、事務所の駐車場にテントが立っていまして、その中に私がいたんです、50日間。
-- それは心掛けていたんですか、住民の方と同じ環境ということで。
長島 避難所に行けばいいのだけれども、避難所に行ったら迷惑をかけると思ったんです。夜中にしか帰れないでしょう。私が行ったらマスコミが来たりする。テントを立ててもらって、悪いけれども1人で入れてもらった。3時ごろ帰るでしょう。ごそごそしていて、5時には事務所に行っていましたから、1時間くらいずっと寝ていました、50日間。(略)
山田(向上高校教師) この3人は今大学生で、ボランティア団体を立ち上げたんですけれども、15人くらい。
長島 これは錦鯉のタオルだから使って、こんなのが入っているけれども、15人分。荷物になるかな。
-- 済みません、ありがとうございます。
長島 錦鯉は山古志の特産品ですから。 ちょうどいい…。
-- ありがとうございました。
長島 またよってください。
佐藤 忙しいありがとう御座いました。今後もよろしくお願い致します。
――了――